(浜田青陵 著「エジプト雑記」文藝春秋、昭和4年より)
カイロの騷がしい埃の町、出迎へて呉れた案内者サラーも宿屋の感じも、私達に所謂「オリエント」の惡い方面ばかりを印せしめた。此の遊覽地本位の市の、旅客に接する土人と埃及居住者とは、「ホテル」の番頭、給仕人、案内者、商店員と言はず、凡てがたゞ出來る丈けの利益を短時間のうちに占めようと考へ、其の極禮儀や節制をさへ失つてゐるらしく、此の金錢關係以外に、我々と彼等との間に何等人間的の交渉は成立してゐない。

2010年12月22日水曜日

ブルネイ出張

10月11日〜14日の期間、ブルネイ・ダルサラーム国の首都バンダルスリブガワンに出張してきました。思えばこの頃から忙しくてブログを更新していませんでした。しかし、ブルネイの後のカイロと京都での重いプロジェクトが終わったので再開します。徐々にカイロの報告もアップします。

ブルネイはイスラーム国なので、カイロ出張日誌とまったく無関係でもないです。同国の国立大学、ブルネイダルサラーム大学との学術交流協定のための下調べに行きました。日本から香港経由でバンダルスリブガワンの空港に着きました。ブルネイは、ボルネオ島に位置しています。ボルネオの北半分はマレーシア、南はインドネシアなのですが、ブルネイはそのマレーシア領土の中のサラワク州の中にある国です。


















ブルネイは、石油と天然ガスなどの資源のおかげでリッチな国です。















首都バンダルスリブガワンは、アイル・カンポン(水上集落)で有名です。貧しい人が住んでいるのかなと思ったら大間違い。朝の通勤は、各水上の家屋から水上タクシーで岸まで行って、そこの駐車場に停めてあるボルボやベンツの自家用車に乗り換えて職場に向かう人たちなのです。昔ながらの生活形態が好きで水上集落に住んでいます。
















こちらは首都中心部にある、スルターン・オマル・シャイフッディーン・モスクです。中に入って一休みしました。
















ブルネイでは面白いことに、店舗の屋号をジャウィー文字(アラビア文字)で併記しなければならないという法律があります。あっ、忘れていましたが、ブルネイでは英語が広く通じるものの、公用語はマレー語です。アラビア語にないマレー語の発音は、アラビア文字では本来点を打たない箇所に点を打ったりして表現しています。例えば、アラビア語にはpの音がないのですが、fを表す文字の上にある1つの点に2つの点を追加して表します。アラビア文字が読める人なら即読めます。マレー語も知らなくてはなりませんが。

















男性は同僚とイスマイール。女性は、ブルネイ大学関係者です。
左の女性は、日本人のキーニー先生で、ブルネイの日本語教育の第一人者です。
















大学図書館の中にあった、電子イスラームキオスクですって。何ができるんだろう。


こちらは本屋というより購買部です。

日本の学生に来てもらいたいな、ブルネイ。


日本語を履修している学生たち。ちょうど発表会の最中でした。 





講堂のステージ。背景にはアラビア語で、アッラー以外に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒だ、と書いてある。サウジの国旗にも剣とともに書いてあります。写真はもちろんナンチャッテ演説です。