(浜田青陵 著「エジプト雑記」文藝春秋、昭和4年より)
カイロの騷がしい埃の町、出迎へて呉れた案内者サラーも宿屋の感じも、私達に所謂「オリエント」の惡い方面ばかりを印せしめた。此の遊覽地本位の市の、旅客に接する土人と埃及居住者とは、「ホテル」の番頭、給仕人、案内者、商店員と言はず、凡てがたゞ出來る丈けの利益を短時間のうちに占めようと考へ、其の極禮儀や節制をさへ失つてゐるらしく、此の金錢關係以外に、我々と彼等との間に何等人間的の交渉は成立してゐない。

2010年1月31日日曜日

昭和時代のカイロ(続き)

浜田青陵は現地のエジプト人とろくにコミュニケーションもとれず、出会ったほんの数人の印象が悪かったに違いない。それを「凡て」のカイロ住民にあてはめるとは、教科書にのっているステレオタイプの定義のようでお見事です。

写真は1970年代のものです。
(これはTahrir広場で、エジプト博物館が見えます。今とあまり変わらないか。この辺りは、伝統的に浜田の描いたボッタクリの世界だと私も認める。日本人の友人がいるとか婚約者がいるとか言って近寄って来て、最終的には香水屋等に連れていかれる・・あのパターン。手口が30余年変わっていないというのは、世襲制か?)

(前述のMawardi通り[薔薇水横丁]にあった床屋で、頑固な職人って感じ。この前で、ガッラーベイヤを着たハッサンがカバーブをパタパタ焼いていました。床屋の隣には、優しい兄弟がやっているオートバイ屋があって、イスマイールのMZも散々お世話になりました。入手できない部品は、型からおこしてくれました。)



(カイロ南部メンフィスのラムセス二世像がある建物。二十歳のイスマイールは、愛車MZ---東欧圏のボロボロバイク---に跨がり、暇つぶしによくここにきました。給油時にはガソリンと2サイクル用オイルを混合するのが手間だった。面倒だった夢を今でも見る。)



(ついでに、これもアップしておきます。母とサッカーラのステップピラミッドの前で。母はこの時、今の私より10歳年下です。当時は日本語対応可のエジプト人観光ガイドが育っていなかったので、不肖イスマイールは現地ガイドの通訳のアルバイトをしました。いやあ、我ながら最低級の学生でした。)


こんなのが、1975年前後のエジプトです。イスマイールは2月6日に成田を発ち、それから35年後の現在のエジプトにトリップします。



昭和時代のカイロ

上の文は、81年前にカイロを訪れた京都帝国大学考古学教授、浜田青陵が書いた一節。当時のカイロは、どんな街だったのだろう。これを読む限り、まるでカイロ住民全員がぼったくりみたいだ。

時代はさらに変わって、イスマイールがはじめてカイロに滞在したのは1975年。一応、当時の写真を残しておく。

(サイイダゼーナブ駅の近くのMawardi通り。まだ未舗装です。煙は屋外のカバーブ屋です。)

(今のDowalil Arabiyya通りからピラミッドに向かう辺り。その後、立派になったDowalil ArabiyyaとAhmad Orabi通りを見た時はぶっ飛びました。)


(これはサウジの聖都メディーナの入り口。1年住みました。)